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『織田信長が好き!!』~龍華成の安土城文庫~
織田信長に対する愛を綴っております。 メインは500冊近くなってきた蔵書の紹介と、まだ見ぬ名作の探求です。 歴史を真面目に勉強したい方にはオススメ出来ません(笑)戦国史を楽しむ管理人のブログです。












ぶろぐ内探索

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実は期待していました!すみません!


(いきなりですが)k2さまに私信。


k2さま。申し訳ありません。
k2様なら何かお教えくださるんじゃないかと期待しながら、
投稿ボタン押しました。
あまりの浅学さ加減に呆れられるんじゃないかと思いつつ、
記事書いてました。

ありがとうございます!!
甘えててごめんなさい!!


銚子事件は、そう云われる読んだことがありました。
というか、読みかえしました。つい一昨日。
折角のお膳立てを蹴って帰ってきたとか!このお方は!!
と、思いつつ、今も昔もお上は面倒くさいな!と思ったばかりでした。
68年に上洛して、75年まで無位無官・・・それ以前が裏工作(朝廷側の?)
とすると、7年間どうしていたんでしょうか!
同じく12年の10月に天盃をたまわったらしいですが、その時も偶然を
装ったのでしょうか。
(お湯殿の上の日記に書いてあるようなのですが、実際読んだことがないので・・・(涙
銚子事件の時は、御屋形様は何を着て行かれたのでしょうか。
言継卿記には、お召し物のことは書いてあるのでしょうか。
(県図か名古屋市図書館へ行け)
束帯衣冠でなければ、直垂あたりかなぁ、と思うのですが、
直垂なんかで禁裏に入っていいんでしょうか・・・
あああ、調べてみたいことがとめどなく沸いてきます・・・
これからも、見捨てず御指導下さいましたら幸いです!



記事と区別がつけづらくなってきたので、
私信はここまで。


天正3年11月の権大納言任官まで、御屋形様が無位無官
なことが分かりましたので、衣装的にはあっさり?しました。
権大納言は公卿なので、黒の縫腋袍に紋入りの縹色の指貫。
正二位右大臣までは同じのはずです。
それ以前(と、天正6年に右大臣と右近衛大将を辞めてから)は
参内時に何をお召しだったかは・・・調べます。(出来るかなぁ

ああ、でもピンクな御屋形様も描いてみたかった・・・orz

とりあえず、今回描こうと思っていた設定は、
身分的にも季節的にも年代的にも完全に破綻したので、
心置きなく妄想ですすめられそうです(こらこらこら


いや、でも出来うる限りは史料からたがわないように
したいとは思っています。
知ってて妄想するのと、知らずに捏造するのは違うよなぁ、
とも思っています。
なので頑張ります。
馬揃えの衣装も一生の研究課題ですし。

まあ、でも、うちの御屋形様月代剃ってないじゃん!
というツッコミをされたら手も足も出ませんけどね!!


メモめもMEMO
6月22日 戦國ストレイズ4巻
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考証して絵を描くのも楽じゃない


6月のオンリーのためにネーム中。龍華です。
冒頭が宮中の場面という設定なのですが、そもそも衣装が分かりません。
という訳で調べる。

宮中といったら、衣冠束帯。のイメージです。
束帯と衣冠が別物なのは分かりました。
が、使い分けが分かりません。
公式な行事は束帯。らしく。
普通の宮中への出勤服、が衣冠らしいです。

ので、とりあえず、衣冠を着ていただくことにしました。
ここでいきなり問題。
帯刀して参内ってありですか?
束帯は平緒で飾剣をつっているようです。
調べると、衣冠は帯刀する場合、平緒は用いない、らしいのですが、
じゃあ、どうやって付けるの?

その前に、御屋形様って参内できるんでしょうか?身分的に。
やばい。上総介が自称なのは知ってるけど、その後が、
どの順番でいつ任官されたのか知らないや・・・・(汗
ちなみに上総は大国で、大国の介は、正六位下
尾張は上国で、上国の守は、従五位下
永禄11年、従五位下弾正少忠
元亀元年、正四位下弾正大弼、
天正2年、従三位参議
天正3年、権大納言(大納言は正三位)、兼、右近衛大将(従三位相当)
天正4年、正三位内大臣、兼、右近衛大将
天正5年、従二位右大臣、兼、右近衛大将
天正6年、正二位、の後、右大臣・右近衛大将辞任
頭が痛くなってきました・・・・
とりあえず、尾張守に任じられていれば、昇殿は可。ですね。
弾正小忠は正六位下と書いてあるのもあるのですが、
位階は従五位下で、役職は弾正小忠というのもありなんでしょうか。
永禄11年の10月に弾正小忠になっているようなので、
御屋形様が上洛しちゃったから、慌てて補任したように見えて仕方ありません(笑
しかも、御屋形様が、弾正忠がいい!とか云い張って、
いや、でも弾正忠だと、大忠でも、正六位上で、昇殿出来ないんですけど・・・
と、公家の人が困った挙句、位階は従五位で、役職は弾正忠。になった。
とかだったら面白いですね!(お前だけな(笑
ま、
それはさておき、上洛した時には、参内可。というのは分かりました。
で、
衣冠(と束帯)は一番上に着る着物を袍(ほう)と云って、
厄介なことに、武官と文官では違うんだそうです。
文官は両脇が縫ってある縫腋(ほうえき)の袍。
武官は縫ってない闕腋(けってき)の袍。
で、弾正忠と、右近衛大将は武官で、
かつ武官でも三位以上は縫腋袍を着るそうなので、
弾正忠時代は、闕腋袍。天正2年の参議以降は縫腋袍を着るんですね。
ちゃぶだいひっくり返したくなってきました。
さて、
更に問題。色。
位階によって、袍の色が決まっているそうなのです。
一位~四位までが、黒。
五位が、深緋。
がしかし、面倒なことに、弾正台の五位は、浅緋色、裏地は黄色。
だそうです。
故に、68年10月~70年3月までは、浅緋色、
それ以降は黒。ということになろうと思われます。
浅緋色に黄色の裏地って、異様に可愛らしい色調に思えて仕方が無いのですが・・・(笑
上の服があれば、ズボンがある。
という訳で、
衣冠では、指貫をはきます。
指貫も色に決まりがありまして、殿上人(五位~は、無地の紫、
公卿(三位以上+参議)は紋がはいって、色は歳によって違います。
御屋形様が参議になったのは40代なので、色は縹(薄い青みたいな色です)

面倒くさい。
という感想以外の何ものも浮かんできません(汗
絵に描いてみようと思ったのですが、疲れたのは今宵はここまで。
ネームが進まないよぅ・・・

康清。調べ物その1
いきなり私信ですみません。
k2様、論文届きました!ありがとうございます!!
まさか郵送してくださるとは思ってもみず・・・
お言葉に甘えて、お礼は気にしないことと致しまする(汗

康正と康清の確執めいた関係にどきどきしました!(え
宗陳があえて康清に作らせたところにドラマがあるに違いない!
と、想像につぐ想像を巡らせております。
つくづく自分は研究者には向かないな、と思った瞬間でもありました・・・
調べる手がかりをたくさんいただいたので、じわじわと
追っかけて行きたいと思います!まずは・・・恵林寺か!?


メモ
総見院紹介HP http://www.icom-kyoto.co.jp/jiin/sokenin.html
http://kabuto-kyoto.seesaa.net/archives/20071013-1.html
http://homepage2.nifty.com/1299/soukenin.htm

『本朝大仏師正統系図』
元亀4年(1573)6月 亀岡市楽音寺の本尊薬師如来坐像
天正13年8月 埼玉薄薬師堂の十二神将像
宮津市 木造阿弥陀如来坐像
甲府市円光院 刀八毘沙門天・勝軍地蔵尊
― 資料 ―
 甲州山梨郡岩窪村瑞岩山圓光院
   勝軍地蔵 刀八毘沙門因由

 当寺の勝軍地蔵尊 刀八毘沙門天ハ永禄八巳丑年
 武田大膳大夫法性院大僧正機山玄公七條大仏師
 宮内卿法印康清に命して彫刻せる所の尊像也
 爾来玄公須臾も身辺をはなれたままハす出てハ戦場重営の内に
 安置して入れては厳城屋漏の間に供養す百戦百勝
 其霊験感應あけて数ふへからす命矣天正元年癸酉の
 四月十二日信玄公参州上村におゐて*館(えんかん)す
 是の時に顧命あり此両尊像ハ圓光院説三和尚江贈るへし也
 すなわち馬場美濃守御使として当寺に将来す
        宝暦九年巳卯三月*日

1551年 恵林寺 武田不動明王像 ttp://www.erinji.jp/
『日本中世の仏師と社会―運慶と慶派・七条仏師を中心に―』
根立研介(京都大学教授) 塙書房 2006年5月 4-8273-1204-4

↑戦国時代の康清についての記述なし
1400年代の康清(豊後法印と宰相)については詳しい。

木造釈迦三尊像(慶長3年(1598)、康正作) 京都妙法院
木造勝軍地蔵騎馬像(康清作) 山梨 清水寺
奈良国立博物館上席研究員・鈴木喜博氏を講師に招いた「特別展記念講演会」を開く。演題は「戦国・安土桃山の造像・南都宿院仏師の活動を中心に・」。

日本の美術 506 江戸時代の彫刻 
↑総見院の木造の写真あり 
康正と康清についてかなり紙面がさかれているが、
康清の出自については皆無。


系図http://www.geocities.jp/okugesan_com/koukou.htm
康清の次にもう一人康清なのはなぜか
1400年代に豊後法印康清と宰相康清がいるからか。叔父と甥。
宰相康清の父康秀が東寺大仏師で
豊後法印康清がその次の東寺大仏師
康正の父も康秀で東寺大仏師だが、1534年のことで別人
でも、康清―康清から康温―康音が枝分かれしているが、
康温康音は江戸の人なので、どういうこと?

仏像の作り方・底に名前を書くものか
目を入れる、色を塗るのは別分担?要する日数




ああ、もう寝ないと。Zzz
ほうこうの謎。
以下
完全に狼木さんへの報告書その2

第六回 衣装研究(馬揃え)

メールで送っていただいたのは、
全部、故事類苑に載っていた文書でしょうか?
古文ちゃんと勉強しときゃ良かったな・・・と思いました・・・orz
さて、


「ほうこ 布袴のよみくせ也、ほう反ふ也」(「倭訓栞」 前編二八保)

反=こ
で良いですかね。ほうこふなり。


「ほうこといふ事あり、きぬさしぬきうるはしくきて、
 そのうへに志たがさねきて、うへのきぬに志りつくりて、
 おびさして、さくをもつなり、ゑうはせず」(雅亮装束抄二)

布袴と云うのがあって、
きぬ(衣コロモの意でしょか、もしやそのまま絹?
下襲の下に着るなら単ヒトエか衵アコメ??)には
指貫を麗しく(うるはしく、美しく?壮麗な感じかな)はいて、
その上に下襲(したがさね)を着て、上のきぬ(服?袍?)に
志り(尻!?何!?袍の格袋ハコエを出す、又は束帯のように中にしまい込む、もしくは、下襲に別裾をつける、ってことでしょうか・・・・しりって・・・・しりって・・・・)
つくりて、帯さして(これは次のにもあるように、石帯をおびるってことでしょう)
さく(笏シャク)持つなり、
ゑう(よう?全く分かりません)はしない。


「布袴事 【反古裏円明寺殿(藤原實経)御筆、布袴は無別子細歟、只先如衣冠下衣ども著し、サテ其上に下重きて袍を著也、
 尻こそ如束帯著玉帯韈、 】常袍に著下襲指貫、是を布袴といふ、著用事は可随先規也、布袴の時は無文丸鞆帯野剣を帯するよし、
 文治三年十月の御記に見へたり、又布袴に不帯剣事も有也、(後略)」(桃花蘂葉)

今度は漢文かっ・・・・
布袴のこと、
反古裏円明寺殿(藤原實経)御筆(どこからが藤原さんの説明・・・?
布袴は無別子細歟(布袴は歟と違うところは無い?
只先如衣冠下衣ども著し(下着は衣冠と同じものを着て?
サテ其上に下重きて袍を著也(その上に、下襲を着て、上に袍を着る。
尻こそ如束帯著玉帯韈(またきた、尻・・・・束帯のように着て、玉帯と
韈(くつした・たび。しとうずのこと?・・・足袋の指先が分かれてないやつ)を着る。
常袍に著下襲指貫、是を布袴といふ(袍に下襲と指貫を着るのを布袴と云う。
著用事は可随先規也(どんな時に着用するかは前例に倣え?無茶な訳だな・・・
布袴の時は無文丸鞆帯野剣を帯するよし
(無文丸鞆という石帯の一種らしい、を帯び、
野剣(野太刀?背負うの??)を帯びる、と文治三年十月の
御記(何の文書?)に書いてある、
また、布袴に剣を帯びないこともある



「常ノ袍ニ指貫ヲ著テ、下襲剣笏ヲ用ルヲ、布袴ト云(後略)」(西三条装束抄)

通常の?袍に指貫をはいて、下襲を着る。
剣を帯び、笏を持つのを布袴と云う。
(剣笏という代物があるなら別ですけど・・・むぅ



「摂政直廬ニテ叙位叙目等以下ノ公事ヲ行フ時著用之、或ハ大臣等拝賀トシテ来入ノ時用之、此外四方排、神社参詣、
 執聟ナドノ公事ニアラズシテ、無止事時皆例アリ、又摂政関白ナドノ前駈魏々タル時用ユ、或春日詣ノ御前ノ弁少納言等
 著用スル也、将軍家ニモ用ラレ侍ル也」(西三条装束抄)

うううむ。どんな時に着る、というのが書いてあるんですよね。
公事って・・・公事方御定書しか出てこんよ・・・公務と見るべき?
前駈・・・やはり、馬に乗る時に関係するのでしょうか。



「(前略)
 摂家
 永祚元年四月八日、法興院摂政(藤原兼家)競馬ニ、直衣布袴ヲモチユ、
 正暦年中ニ、御堂関白(藤原道長)曲水宴ノトキ、紅梅ノ直衣、火色ノ下襲、紫ノ織物ノ指貫ヲ著ス
 凡直衣布袴ハ、其日第一ノ公卿ノ取意也、下トシテハ斟酌アルベキヨシ、家ノ記ニ見エタリ」(西三条装束抄)


永祚元年四月八日に、藤原の兼家が競馬の時に、直衣布袴を着た。
正暦年中に、藤原道長が曲水宴の時、紅梅の直衣、火色の下襲、
紫の織物の指貫を着た。
凡(おおよそ・・・だったっけ・・・汗)直衣布袴は、
其の時の一番偉い公卿が着るものであって、
一般人?は着ない方が良いでしょう(ほんまかいな)と、
家の日記?に書いてある。
直衣布袴とは、下襲をきて、(裾もあるのかな?)指貫をはいて、
直衣を着るもの、古い時代は石帯もしたらしい。
っていうか、道長真っ赤だな(笑



故事類苑難しすぎヾ(*`Д´*)ノ
(某の頭が足らなさスギ・・・



とりあえず、袴が指貫なのは、確実ですよね。
でも、それを踏まえた上で信長公記を読むと、

御内府の御装束、御眉にて、きんしやを以ってほうこうめされ

ほうこうが錦紗で出来ているはずなのに、

御肩衣、べにどんすに、きりから草なり。御袴、同前なり

袴が紅緞子で出来ていると、書いてある・・・・・・・・・・牛ちゃん!(怒
やはり、ほうこうは角川の注どおり、儀礼の際着用する衣装の総称とだけ捉えたほうが良いのでしょうか。
でも、肩衣は儀礼用で良いの??
ほうこうの謎は解けたのに、別の穴にはまった感じです・・・・・
教授の仰るとおり、信長研究者になりませんか?(をいをい
なんでそこだけ内府なんだ!!
昨日のファイテンションスクール。
のぶながくん、一瞬しか映らなかったですね(涙)龍華です。



以下
完全に狼木さんへの報告書。

第五回 衣装研究(馬揃え)


内府=だいふ
の件は、確か、なんかの辞書を引いた(電子辞書か広辞苑?)
んだと思います。だので、何かの史料を読んだとかではないです。
内府=内大臣
は、あってますよね?
とすると、第一回の時に、任じられていない、と書きましたが、
信長公記巻九に、

『天正四年丙子十一月二十一日、
重ねて、信長、内大臣ニ御官を進められ(云々』


とあるので、内大臣にはなってるんですね。
ウィキペディアの内大臣のページを見ると、
歴代の内大臣の一覧が載っているのですが、それによると、
御屋形様の任期?は1576年~77年までで、
その後は二条昭実(にじょうあきざね)、天正九年の馬揃えの頃は
近衛信尹(このえのぶただ)が内大臣のようです。
その後、秀吉も家康も内大臣になっているようなので、
みんな、内府じゃん・・・・・・・・orz

で、馬揃えのところだけ読んでいて気づかなかったのですが、
信長公記って、基本的に御屋形様のことを
「信長公」か「信長」(呼び捨てかいっ!
って書いてるんですね。なのに、どうしてこの記事の時だけ、
しかも、この描写の時だけ、わざわざ「御内府」って書いたんでしょう?
もしや、別人!?
とも疑ったのですが、こんだけ行数費やしといて、
御屋形様じゃないなんてこと、ありえないだろう・・・と思い直し(汗

で、
ほうこう=奉公?
の件、
周辺で、ほうこう、が使われているのを上げてみると、
直前の御爆竹の事
『その次を信長公、黒き南蛮笠をめし、御眉をめされ、
 赤き色の御ほうこうをめされ、唐錦の御そばつぎ(云々』

直後三月五日の馬揃え
『御装束は黒き御笠に御ほふこふ、何れもめされ、
 くろき御道複に御たち付け、御腰蓑させられ候なり(云々』

八月朔日御馬揃への事
『八月朔日、五畿内隣国の衆、安土にあり候て、御馬揃へ。
 信長公御装束、しろき御出立。御笠にて、御ほふこふめされ、
 虎皮の御行縢、葦毛の御馬なり。近衛殿、其の外、御一門御出立、
 下には白き帷、上には或ひは生絹の帷、或ひは、辻が花染め、
 抜下にして、袴は金襴、鈍子、縫物、蒔絵、色々なり。
 御笠、思ひ思ひ、何れも御ほふこふにて、御馬めさせられ(云々』


あぁ、もう手が冷たくなってきました(しもやけおててがぁ~
分からなすぎる・・・・・探せば探すほど、ドツボにはまっている気が・・・
っていうか、ほうこう、と、ほふこふ、って別物・・・?
とかいうのはやめてよ?牛ちゃん・・・(必死
袴が蒔絵って何だね?
笠と頭巾と一緒にかぶんないでよ・・・・(想像を絶した・・・orz

うおー!頑張りましょう!!
卒論終わってからー!!!(他力本願




それにしても、馬揃えしすぎだわ、天正九年(笑
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